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心身一如~生きるってのはいい
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心理カウンセラー=山崎雅保がつづる小エッセイ集(月刊『食生活』連載記事より転載) http://www/cha-ya.com/hart/
by heartpit_hige
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心身一如その四十二/親の我が儘
日々もたらされる数々の歓びの中でも最大級の歓びは、やはり「食」。グルメごっこなんぞとは無縁の「当り前の食」。しかも「提供される食」ではなく「提供する食」。それも「わが子に歓んでもらう食」こそが、ボクにとっては至上の歓びです。
「自分で拵えた食」をわが子がバクバク食べてくれる場面を思うだけで、ボクの胸はワクワクしちゃうほどです。
20代後半に入った娘はそんな心情を十二分に了解しているからでしょう、いつでも「オトウのパスタは特上だね」などとほめながら食べてくれます。
思春期真っただ中の息子は、ほめ言葉こそ口にしませんが常に驚くべき大量をペロリ平らげてくれます。
幸せです。子どもらが元気にパクパク食べてくれる姿をながめるのは、とても深い幸せです。そんな幸せの中、いろいろ考えもします。
いつかボクがこの世を去った後、娘も息子もボクの手料理を大事な思い出としてくれるだろうか。
思い出してくれるとしたら、ボクは文句ない幸せ者だ。
だったらなおさらじゃないか。もっともっとたくさん思い出のネタを提供させてもらうじゃないか。
二人の舌に、胃袋に、心に、もっともっと愛を染み込ませてやろう。
ちょいと押しつけがましいかもしれないけれど、親の権利として、そのくらいはさせてもらいます。
つまりボクは我儘親父なんです。手料理を食べさせたがり、散歩に子どもを同行させたがり、そうすることで世を去って後にも子どもらの心身のどこかに息づこうと目論む我儘者。
ま、親なんてのは、ボクにかぎりません、存外手前勝手なんだよね。子どもの本来はすごく優しいから親の邪悪な手前勝手さえ受け入れちまう。だからこそ親は子どもの心に深い配慮を重ねなきゃいけません。
まして親殺しせざるを得ぬまで追い詰めるなんて極悪です。
山崎雅保
『月刊『食生活』編集部の許諾を得て転載]
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by
heartpit_hige
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2008-02-27 14:23
心身一如その四十一/こきりこ節の思い出
旅すがら立ち寄ったのは越中五箇山。世界遺産にされちまった合掌集落。かつては正真正銘の山間僻地、豪雪に埋もれる山里であった五箇山に、今は高速道路のインターチェンジ。便利になったなあ。けど誇り佇む深山の里たる趣は消えました。
しょうがないけど気分が悪い。こんなことでいいのかな。やっぱ承服できねえよ。五箇山に暮らす人々は、きっと豊かで便利な生活を得たのだろうなあ、と思いはしても、よそ者は身勝手いわずにいられません。
35年余の昔。あのとき22歳。ボクは旅の出会いの流れにしたがいデコボコ山道に揺られ揺られたあげく、五箇山にたどり着きました。
五箇山は春。春のすべてが同時に蠢いていました。雪解け。芽吹き。蛙の合唱。桜。順を追うのではなく、冬の終わりと見極めれば一同に会する春や春。都会育ちの若造は、五感で得るすべてを脳裡に刻印したくて、春蠢く山里に数日さまよい歩きました。
ボクの心身は、今もあの春のすべてを憶えているようです。目を閉じてたどれば、胸の震えをともなって蘇るのは無数の感触。情景というよりも感触です。
あのとき、泊まったのは築三百年を経た合掌屋根の宿でした。客がボクのほかにもう一人だけの夜に、囲炉裏端で宿の女主が謡ってくれた『こきりこ節』。
♪こ~きりこ~のお~た~け~は~し~ち~す~ん~ご~ぶ~じゃ~♪。
打ち鳴らす「こきりこ竹」の音と、なだらかに節連なる声音は、合掌の分厚い茅葺きを突き抜けて、庄川谷の天にまで響くほどに想われました。
「雪かね、そりゃあ深い。深いときには二階の窓から出入りするほどじゃ」
不思議でした。人はなぜ、厳しい山里に暮らし続けてきたのだろう。
今は分かるつもりです。そこに過不足ない暮らしが成り立ったからだと思うのです。
山崎雅保
[月刊『食生活』編集部の許諾を得て転載]
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by
heartpit_hige
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2008-02-17 18:17
心身一如その四十/人生という遊び
ボクの生物学上の正式名はHomo sapiens sapiens。
あなたもそうでしょ?
もし別学名の生き物、または地球人類が定めた学名を持たぬ生き物が拙文を読んでるとしたら、そりゃあスゲエ話です。
とまれ、ボクらはホモ・サピエンス・サピエンス。なにゆえサピエンスが重なるのか首かしげちゃうけど、日本を象徴した鳥=朱鷺の学名である「ニッポニア・ニッポン」に照らせば、学名なんてのはそんなもんなんでしょう。
ホモの意味は「霊長目ヒト科ヒト属」。サピエンスは「智恵ある」の意。で、ホモ・サピエンスは「智恵あるヒト」。智恵なき人だったらホモ・サピエンスから除外されるのかもね、ハハ。
他方、ホモ・ルーデンスっていい方もあります。こいつはオランダの学者=J・ホイジンガが提起した人間観。ルーデンスは「遊ぶ」の意。ホモ・ルーデンスは「遊ぶ種であるヒト」といった意味合いになるわけで、とするとボクにふさわしいのはサピエンスじゃないルーデンス。なんてったって「人生すべからく遊びだわい」が身上ですんでね。
恵まれてるのかなあ。甘いヤツだと叱られちゃうかもしれないけれど、ボクにとっては仕事も遊び。子育てなんか特上の遊び。学ぶも遊びなら家事雑事その他すべからく遊び。飲食となれば、作るも含めてこの上なくうれしい遊び。
嫌なときもあるよ。辛いときもあります。けれどいずれいつかは「面白かった」に帰趨するなら、「生きる」とはつまるところすべて遊び。だって何にもやることなかったら退屈に毒されて心身深く病んでしまうのがホモ・ルーデンス。で、歳重ねて気づかされたけれど、物事ってのは、やっぱ面倒なほうがいいですね。飽きないもん。
この世ってのはまさしく面倒厄介の集合体。飽きるイトマもなくてさ、よかったねえ。
山崎雅保
[月刊『食生活』編集部の許諾を得て転載]
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by
heartpit_hige
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2008-01-20 22:29
心身一如その三十九/質素な豊かさ
原油価格高騰。当然すべての石油製品が値上がり。輸送コストも嵩むから消費者物価はアレコレ高くなる。輸入小麦も値上がり。だからパンもパスタもウドンも菓子も、小麦粉使う食品はみんな値上がり。さあ大変だ。ただでさえ楽ではない生活がさらに圧迫されちまう。
メディアはそんな具合に報道したがってますね。実際そうなのかもしれません。長いデフレ傾向のおかげで実質上の減収時代を乗り切れてきたのに、減収はそのままインフレとなったら「やってられないよ」とも思います。
けど、どうなんだろ。皆さんそんなに困っているのでしょうか。いえね、業種によっちゃ、また企業経営の観点に立つなら、ホントに困った事態なのかもしれません。しかし一地球人として想うなら、案外いいことなんじゃないでしょうか。
だからじゃないかなあ、メディアがインフレ懸念を喧伝する割に人々は冷静に事態の推移を受け入れようとしているように感じられるのです。違うかな。ボクだけの楽観的すぎる思い込みでしょうかね。
京都議定書の二酸化炭素排出削減目標は空念仏に潰えました。だってエネルギー関連価格が相対的に安価だったのだもの、暖房も冷房もクルマも「使いすぎちゃいけない」と思いつつけっこう使っちまいました。食材だって無駄だらけ。エコロジーや温暖化抑止に無関心ではないけれど、つまるところは石油たくさん燃やしたし食材その他の無駄もやめられない人間どもでした。
だから、高くなってくれたのはよいこと、というより、人類が今後を生き延びるために避けてはならない必然なのだと思えるのです。エネルギーも食材も無駄にはできない。けれど貧しくはない。私らの心身には「質素な豊か」を創出する知恵くらい備わってるはずです。
山崎雅保
[月刊『食生活』編集部の許諾を得て転載]
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by
heartpit_hige
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2007-12-12 18:46
心身一如その三十八/便利が招く絶滅
動植物に絶滅危惧の種尽きぬ昨今なれど、ボクがとても危惧する一つは「町の模型屋」絶滅です。
過ぎた猛暑の盛りに58歳となったボクが子どもだった時代、町暮らしで工作好きの少年は手近のどこかに必ず「通いなれた模型屋」を確保してました。でも今は絶滅寸前。ボクが住まう近在でも十余年前には数軒の模型屋があったのに、一つ閉じまた一つ閉じして、いつしか徒歩圏では絶滅、ついには頼りにしてた電車で十五分ほどの町の中規模店も閉じちまいました。デパートにも、かつてはたいてい模型売り場があったのに、これも絶滅直前でしょう。模型は、物好き親父たちの戯れに成り果てたようです。
自分の手と智恵を駆使して、必要不可欠の学びを次から次と重ねながら飛行機模型や鉄道模型などを作る。これは科学技術希求の土台になり得ます。己が手で物を拵える喜びは、生活技術のあらゆる領域への意慾の苗床にもなります。物を拵え分解し再構成する作業は、この世のあらゆる事象の成り立ちを想う端緒になります。
コンピュータゲーム遊びにしろ模型遊びにしろ、退屈しのぎのヒマつぶしに過ぎぬ点は同じだとしても、両者から得る学びや体感には雲泥を超えた大差があるのだ、と模型遊びをいまだに続けるボクは信じています。
忙しさが続きがちな日々。そんななかでももっとも苦しいのはわが手で物を拵えられないこと。食べるものが出来合いばかり。わずかの時を楽しむのもテレビその他の出来合いばかり。わが手が拵えたものを味わい、わが手の拵えた遊びを楽しめない日々が続くと、ボクの心身は軋み始めます。軋みを放置したまま過ごせば不機嫌が募ります。
忙しがりには遊びも食事も手間なし出来合こそが便利なのでしょう。けれど便利は、人間の日々から「幸せ」を奪い続けている元凶かもしれません。
山崎雅保
[月刊『食生活』編集部の許諾を得て転載]
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by
heartpit_hige
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2007-11-28 06:46
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